こんにちは。
前回、日本の公教育は限界だというお話をしました。
どうも、目指すべきを物を見失ってしまっているようです。
私自身も長年、高校で教えてきて、時代と共に移り行く指導観と自分が描く理想の実現の間で、目指すべき目標がぼやけてしまったように思えます。
今になって思うことですが、英語教育が目指すべき理想と、公教育での教育目標は一致しなくても良いのではないか、と考えています。・・と言うのは、公教育というのは、あくまで社会人として必要な基礎的な教養を身に着けることが目的だからです。
「日本人は中学、高校、大学と10年も英語を勉強しているのに全く話せるようにならない。」
私も含め、多くの日本人は、どうも、この言葉に悪い影響を受けてきたように思われます。
日本人の英語学習の完成のイメージとして「基本的な英語を聞き、話すことができ、読み、書くことができる」ということが思い浮かびます。
しかし、これを実現するには、学校教育だけでは難しく、多くの学習時間が必要になり、本人の熱心な努力が必要になります。
であるならば、中学、高校で教える英語は必ずしも完成を目指さななくても良いのではないか、と思うのです。
日本の学生の多くは確かに、聞く、話すは、苦手な生徒が多いでしょう。しかし、読む、書くの基本ができていれば、それで良いという考えも十分に賛成できるのです。
今となってはツイッターでベテランの先生が言っていたように、公教育で教える英語は、読み書きの基本を中心にした内容にして、聞く、話す はそれ程、重視する必要はないのではないかと私も思います。
英語教育の目標は個人で違いがあり、人それぞれです。公教育で身に着けるべき教養はどの人にとっても必要な基礎的なのもので十分なのです。この区別があやふやにならないようにお互いに十分、注意したいものです。
ではまた(^.^)/~~~